土壌と種


わたしは、近現代史編を始めてから、やっぱり明治維新を見直した方がいいな、と思っている。

 

明治維新のやり方をちょうど、問う頃に来ていると思う。

急激に近代化したあのときを。


そして、同時にいまわたしは第二次世界大戦について、

やっぱりここに向き合わなければいけないと思う。

 

何度も何度も問い続け、結局、近現代史編には戦争自体のレクチャーは入れないで、あくまで戦後というテイで講座を作った。

けれど、やっぱりWW2が何度も何度も頭をもたげてくる。

何度も何度も。

 



このたび、森会長の女性蔑視の発言に非難が集中している。


わたしは、その指先自分に向けろと声を大にして言いたい。



森会長は御年83歳。戦前の人である。


戦前の日本の状況と言えば、自分の母親には選挙権がなかった時代。

女性が主体的に動くなんて考えがなかった時代である。

 

軍国主義が加速化し、産めよ増やせよ、立派な赤ちゃんを競うような催しが行われ、

そんな幼少期を過ごしてきた人が言う言葉と考えれば、至極まっとうな発言だと思う。



もちろん、森会長を擁護する気はさらさらない。

当然立場や時代をわきまえてもらわねば困る。

 

 

しかし、そんな人が国際的な責任や大きな発言力を持つ立場に就くこの社会構造を作ったのは一体誰か?わたしたち一人ひとりの行動や意識ではないか。



年齢や経験・知名度・肩書に対する盲目的信頼。

誰かにお任せしっぱなしの政治。

 

これらを作り上げてこられたのは政治家だけの力ではない。

有権者すべての自覚の問題である。

 

 

こんな古い時代の人にはオリンピック任せられないよ、と、思えるかどうか、これこそが最近話題になった「民度」なのでは?


歴史的背景を知るということは、

つまりはそれでいいのかどうか、自分の判断軸を持つことに他ならない。

 

 

今回の森会長の発言についてわたしが思うことは、その指先を自分自身に向け直し、もっと歴史を学んでみたらいかがでしょうか、といういつもの決まり文句である。



さて、話を種と土壌に戻そう。

 

 

そう、森会長の一件に代表されるそういった考えや志向の土壌が作られたのはまさに明治維新。

 

そして、その土壌にまかれた種こそがあのWW2ではないかと、わたしは思っている

(とはいえここはもう少し詳しく説明したいところではある。そのうち書けたら書く)。


今この日本に開いた花、みなさんには綺麗に見えているのだろうか。