リーダーの器量;漢方の視点から

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


さて、今日は「清濁併せ呑む」ということわざについて。どうも調べたのですが、なぜこの言葉が出来たのかわからず、、、一般的な解釈を元に記載します。

リーダーに求める能力としてよく言われる「清濁併せ呑むほどの器量」、大海を例えて生まれた言葉だそうです。善と悪、賢者と愚者を分け隔てなく受け入れる「心の広さ」を表す言葉。今日はあえて(無理矢理?)漢方的に解釈してみます。漢方的に考えるとすごーーーーーーーーーーく不健康極まりない、「清濁併せ呑む」の漢方的解釈。

漢方の理論では、

清・・・食べ物から作られるうちの、体に必要なもの。
濁・・・食べ物のカスなど、体に不要なもの。

と定義されます。それらは小腸で分別されます。小腸と言っても現代医学のアソコではありません。六腑という臓腑のうちの一つ。

大事なのは清も濁も身体の中で滞りなく巡ること。まず両方とも必要な場所へ運ばれる必要があり、「清」はその場できちんと生命維持に働く必要があり、「濁」は滞ることなく排出される必要があります。

さてここでリーダーの器量に戻りますが、どちらも呑んでしまうと身体に要らぬ負担をかけます。身体は、分けるのにだって一苦労なんです。色々エネルギー使うんです。ウサギじゃあるまいし出したものまた食べるなんて。ウサギの心が広いとでも言うのかい、と突っ込みたくなりますよね。

んん?清濁分かれていない段階で呑むということか?それなら、少しは話が通じるけれど、本来の意味を成し得ないような気もする。。。


で、まあいいや、それは置いておいて。

さっき、さらっと書いた小腸の話、実は今日のキモなんです。そう、キモ。感じで書くと肝。肝は五臓。六腑は必ず五臓と繋がっていて、小腸と繋がっているのは五臓のうちの「心」なのです。清濁の分別は小腸が行うけれど、「心」と影響し合っています。清濁併せ呑むという言葉が結局のところ心の広さを表す背景には、こんな漢方の考え方もあるのですね。


結局のところ大事なのは清濁の分別のプロセスだなあと書いていて気づいたのでこの話はまた。



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教養の歴史(知識)がわかります。
そして、あなたはリーダーとして歴史から何を学びますか?と問うています。